災害と心理の話|第1部:人はなぜ「大丈夫」と感じてしまうのか。正常性バイアスと楽観バイアス

心理メカニズム

日本は世界でも有数の災害多発国です。地震、台風、豪雨、洪水。毎年のように各地で大きな被害が報告されています。にもかかわらず、「まさかここまでになるとは思わなかった」という声が、災害のたびに聞かれます。

これは、情報が届いていなかったからではありません。警報や避難情報が出ていても、人の心にはそれを「今すぐ動かなければならない事態」として受け取りにくくする、心理的なメカニズムが働いています。

全3回のシリーズで、災害時に人の心に起きることを心理学の知見をもとに整理していきます。知識として持っておくことが、いざというときの判断を支えてくれます。
第1回は、最も基本的なふたつのバイアスについて取り上げていきます。

「たぶん大丈夫」の正体、正常性バイアス

大雨警報が出ていても、なんとなく様子を見てから判断しようとしたことはないでしょうか。
「この辺りは昔から浸水したことがない」「たぶん今回もたいしたことないだろう」という感覚は、多くの人が経験するものです。

これは正常性バイアス(Normalcy Bias)と呼ばれる認知的傾向によるものです。異常な出来事に直面したとき、脳がそれを「日常の範囲内のこと」として解釈しようとする働きをいいます。
人間の脳は、日々の膨大な情報のほとんどを「問題なし」として自動処理することで認知的な負担を減らしています。この省エネ機能が、緊急事態においても同じように作動してしまうのです。

防災心理学の第一人者である広瀬弘忠氏(東京女子大学名誉教授)は、著書『人はなぜ逃げおくれるのか』(2004年、集英社新書)において、正常性バイアスが避難行動の遅延に深く関与していることを示しました。さらに広瀬氏は、「自分に都合のよい情報を集めやすい」という確証バイアスとの複合作用も指摘しており、過去の無事な経験が重なるほどこの傾向が強まりやすいことを論じています。

また危機管理研究者のアマンダ・リプリー氏は著書『生き残る判断 生き残れない行動』(2009年)の中で、災害直後に多くの人が「これは本物の緊急事態ではない」と自分に言い聞かせる行動パターンを広範な事例から記録しています。

注目したいのは、この傾向は「慣れ」や「経験」が強いほど働きやすくなるという点です。
「うちの地域は今まで大丈夫だった」という経験が、かえって初動を遅らせることがあります。
警報や避難指示が出た際には、過去の経験よりも「今回の状況」を優先して判断することが重要です。

「自分には起きない」という感覚、楽観バイアス

正常性バイアスと似ていながら、少し異なる傾向があります。それが楽観バイアス(Optimism Bias)です。

「自分は平均的な人よりも悪い出来事に遭いにくい」と感じる認知的傾向のことをいいます。
例えば、交通事故、病気、自然災害。
客観的な確率とは無関係に、「それは自分には起きない」という感覚を持ちやすいのは、人間に広く共通した特性です。

ロンドン大学(UCL)の神経科学者ターリ・シャロット博士は、2011年に発表した研究において、楽観バイアスが脳の前頭前皮質と扁桃体の活動パターンに根ざしたものであることを示しました(Sharot et al., 2011, Nature Neuroscience)。これは楽観バイアスが気分や状況によって左右される表面的なものではなく、脳の情報処理の構造に組み込まれた傾向であることを意味しています。

楽観バイアスは、日常生活においてはメンタルヘルスを保つ上で大切な役割を果たすこともあります。しかし、自分のいる地域のハザードマップを客観的に確認するといった行動が、災害リスクの評価においては大切な一歩になります。自分の感覚ではなく、データに基づいてリスクを把握することが有効です。

ふたつのバイアスが重なるとき

正常性バイアスと楽観バイアスは、それぞれ単独でも判断に影響しますが、ふたつが同時に働くとき、その作用はより複雑になります。

たとえば、大雨警報が発令された夕方を想像してみてください。窓の外を見ると、雨は降っているものの、道路はまだ普段と変わらない様子です。近所の人も特に慌てた様子はありません。そのとき、心の中に静かに広がるのが「たぶん今回もたいしたことないだろう」という感覚です。これが正常性バイアスです。
そしてその感覚に「でも、うちは高台だし」「自分の家はこれまでも大丈夫だった」という思いが重なります。これが楽観バイアスです。

ふたつが組み合わさると、「異常なサインを異常と感じにくくなる」上に「仮に何かあっても自分には影響しないだろう」という、二重のフィルターが生まれます。このフィルターは、外から見えるものではありません。自分でも気づかないうちに、判断の土台に組み込まれています。

重要なのは、このふたつのバイアスが「特別な状況にいる特定の人」に起きるものではないという点です。防災心理学の知見が繰り返し示しているのは、こうした傾向が人間に広く共通
して見られるということです。経験豊富な人も、知識のある人も、同じメカニズムの影響を受けます。だからこそ、「自分は大丈夫」と感じているときほど、一度立ち止まって状況を確認することが大切になります。

バイアスを「知っている」ということは、そのフィルターに気づける可能性を持つということでもあります。「あ、今これかもしれない」という小さな気づきが、行動のタイミングを変えることにつながります。

ただ、災害時に判断を難しくする心理は、このふたつだけではありません。
次回は、集団の中にいることで個人の判断がどう変わるのか、そしてSNSを通じてデマが広がりやすい理由について取り上げます。

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